【雑記】アニメポケモンの幻の最終回と映画3作目

その他

【アニメポケモンの世界はサトシの空想世界】

そんな公式設定があったのをご存じですか?

初代ポケモン世代の私は、そんな設定があることを知らず、ただただ愕然としました。

そんな設定を知って懐かしむもよし、見返すもよし、ゲームを起動してみるのもよいかと思います!

本編では明かされなかったたくさんの公式設定があることを、シリーズ構成を担当した首藤剛志氏がコラムに書き連ねています。

このコラムなどから引用をして、ポケモン世界の紹介と幻の映画3作目の謎と、最終回について考えてみたいと思います。

これから紹介する内容は、首藤剛志氏がシリーズ担当をしていた間のポケモンの設定であり、その期間の公式設定です。(だと思います。)

アニメポケモンの内容なので、当然ゲームとは異なります。また、降板後の現在の設定とは違うことにもご注意ください。

引用元は特別な記載がない場合は、以下のサイトのコラムです。

シナリオえーだば創作術だれでもできる脚本家 著首藤剛志

このコラムの第139回から第226回まであり、その中から特に関係のあるフレーズを引用しました。ぜひ引用元も見ていただきたいです!

コラム中では、主にアニメポケモンの世界を『ポケモン』と表記していることが多いです。

また、小説版ポケットモンスターに書かれている内容については別途参考サイトから引用をしました。

created by Rinker
¥3,885 (2025/05/20 00:04:57時点 Amazon調べ-詳細)
created by Rinker
¥26,305 (2025/05/20 00:04:58時点 Amazon調べ-詳細)

小説版ポケモンはプレミア価格になってます!(VOL.2にいたっては27,926円・・・)

首藤剛志氏とは

そもそも、この引用元のコラムを書いている首藤剛志氏とは何者なのか。

この方はアニメポケモンの初代シリーズ構成を担当している方です。(シリーズ構成第1話から第158話、脚本は第245話で降板)

シリーズ構成とは、

”ストーリーとか登場人物の設定、アニメとしてどう表現するかである。”

第140回『ポケモン』を愛してください より

ゲームを元にしたアニメポケモンの世界観の設定を作った人です。

脚本は、構成の作った設定の元、各話の台本を作る担当(だと思う。)

『ポケモン』のテーマ

”『ポケモン』のテーマは、ポケモンという架空の生物と人間のかかわり、そして、サトシという少年(これはすべての人間の少年少女期を意味する)のよきにしろ悪しきにしろ大人への成長である。

引用元:第201回ごめんなさい。忘れてた。カスミのこと より

『ポケモン』の世界とは

冒頭にも書いた衝撃的な事実、アニメポケモンの世界はサトシの空想の世界。

こんな設定があったのは驚きでした。

”『ポケモン』の世界には、ポケモンしか出てこない。

サトシの中の空想の『ポケモン』世界なのだから、当然である。

ポケモンは、想像されたものであり、実物の動物ではない。”

”おそらくサトシにとって、『ポケモン』の空想の冒険世界に旅立ったのは、少年期のほんの一瞬なのかもしれない。”

”サトシの出てこない、人間の出てこない『ポケモン』のストーリーもあるが、『ポケモン』が登場するかぎり、その世界のどこかにサトシは存在するのである。

画面に映ってはいなくても、そこはサトシの『ポケモン』の世界なのだ。”

引用元:第143回『ポケモン』第1、2話放映 より

”(小説について)もちろん、『ポケモン』の世界は虚構である。

だが、完全に虚構にはしなかった。

旧約聖書の天地創造を元にしたり、ダーウィンの進化論をネタにしたり、動物行動学を意識したり、「生命潮流」のライアル・ワトソンを持ち出したり、現実に思い当たる事柄をひねった虚構にした。”

引用元:第157回ポケモン予期せぬ出来事―数ヶ月前 より

『ポケモン』とはなんなのか

私のような無印世代だと

「ふしぎなふしぎな生きものどうぶつ図鑑にはのってないポケットモンスターちぢめてポケモン」

なんていう、ポケモンいえるかな?のフレーズがでてきますが

首藤剛志氏の考える『ポケモン』は大きく踏み込んだものとなっています。

初めてこの設定を知った時にはゾッとしました。ちょっとしたホラーな設定です。

これが2次創作ではなくアニメポケットモンスターの公式設定だったことに驚かずにはいられませんでした。

この内容は、”幻の映画3作目”にも繋がる話題にもなっています。

”この世界にも本物の動物がいた、だが今はいない。記録には残っているが、人間の記憶にないのだ。”

引用元:第210回幻の『ポケモン』映画3弾……消えた より

”ところで実物の動物は、『ポケモン』の世界では絶滅していて、言い伝えとしてしか出てこない。

そのことについては、僕はアニメ版『ポケモン』の小説の中で簡単に述べている。

いつの間にか普通の動物はいなくなっているのだ。”

引用元:第143回『ポケモン』第1、2話放映 より

”ポケモンは新種が発見される度に、既存の生き物は姿を消していっている”

引用元:wikipedia”ポケットモンスター The Animation” より

”小説の中では、ポケモンは、人間の理解不能な不思議な生き物という事になっている。”

引用元:第155回人間の言うなりにならないポケモン より

”『ポケモン』は、人間の理解を超えた生き物”

引用元:第157回ポケモン予期せぬ出来事―数ヶ月前 より

首藤剛志氏がアニメ『ポケモン』で描きたかったテーマとは


首藤氏は『ポケモン』を、ポケモントレーナーがポケモンを使ってバトルさせる物語とせず、人とポケモンの共存を描きたかったとのことで、そのテーマは幻の最終回にも関わってきます。

”(ゲームポケモンの)主人公はプレーヤーの代理である。

現実のプレーヤーは、ゲーム機の外にいて、傷つくことはない。

プレーヤーとゲームのこの関係をそのままアニメに持ち込むと、主人公がなんの苦労もせずにポケモンを捕まえて、そのまま自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争のように見えてしまう。

そういうアニメにはしたくなかった。(中略)「スタンド・バイ・ミー」のテーマさえ外さなければ、『ポケモン』のアニメから代理戦争臭さを消せるような気がした。

そのテーマを伝えるためにもロケット団が必要だったのである。”

引用元:第142回『ポケモン』ミュージカル? より

”(スタンドバイミーは) その少年たちのある時期の冒険を、大人になった彼らが、あらためてしみじみと懐かしむという形で描かれている映画なのだ。”

”テーマは少年時代の誰もが持っている、一時期の根拠の薄い冒険心と友情とその時代への懐かしさである。”

”僕は子供達が体験する懐かしい冒険の一時期を描くのがポケモンの世界だと思った。

毎回、その懐かしさをアニメで持続させるため、ほとんどの話数に大人の悪役のロケット団のムサシとコジロウとニャース(どうやらニャースも大人のようである)が、月日を経ても、歳を取らず大人の悪役として登場する。”

引用元:第143回『ポケモン』第1、2話放映 より

また、これらのテーマとは別にこうも書いています。

”「自己を見失うな」という事も、このアニメのテーマにしたかった。”

引用元:第143回『ポケモン』第1、2話放映 より

ロケット団について

実は主役だったロケット団!?

”ロケット団のトリオは、常連の悪役として主人公達の周囲をうろつく事によって、主人公以上に『ポケモン』世界を俯瞰で見ている。

おまけに、ロケット団のニャースは、ポケモンの言葉を人間に通訳できるのである。

ニャースは、旅で出会うポケモンの感情を、ロケット団の人間であるムサシとコジロウに教える事ができる。

当然、ムサシとコジロウは、主人公の少年より、ポケモンの感情をニャースから聞く機会が多いはずだ。

主人公の少年と一緒にいるピカチュウの本当の感情を知ることができるのは、同じポケモンのニャースであり、それを人間の言葉として聞くことができる立場に一番近いのは、ムサシとコジロウだ。

ポケモンと人間の関係がどういうものか知り、ポケモンと人間の関係を語れるのは、主人公の少年ではなく、ロケット団のトリオなのである。

つまり、僕にとって『ポケモン』の実質上の主役は、ロケット団なのである。”

引用:第156回『ポケモン』でプレッシャー初体験 より

映画1作目ミューツーの逆襲のテーマ

”『ミュウツーの逆襲』は「自己存在への問いかけ」”

引用元:第184回『ミュウツーの逆襲』のその先へ より

”子供向きに言えば、『ミュウツーの逆襲』は自分とは何かを考えること”

引用元:第206回『ポケモン』をあと10年 より

映画2作目謎のポケモンルギア爆誕のテーマ

”『ルギア爆誕』は「それぞれの自己存在」が共存すること。”

引用元:第184回『ミュウツーの逆襲』のその先へ

”僕の考える共存とは(中略)自分の自己存在を尊重し、自分の思い通りの生き方をして、なおかつ、気がつけば他の人(生物)も、一緒に生きているということなのである。”

引用元:第197回『ルギア爆誕』自己主張で共存 より

”自分はこの世界にかけがいのないたった1人の存在なんだから、他人にコンプレックスを感じたり、いじめられてしょげたりすることなどない、他人と自分との違いに気づき、他人の存在を尊重しよう”

引用元:第208回『ポケモン』映画第2弾以後、第3弾以前 より

映画1・2作目について

”この2本のポケモン映画は、アニメにしては、「自己存在」「共存」など、子ど向きとは思えないテーマを裏に抱えている。”

”「あなたはあなた。他人は他人。互いに違っているのはあたりまえなんだから、そう思って相手と付き合うと喧嘩せずにすむよ」――子供向けに語ればこういうテーマである。”

引用元:第206回『ポケモン』をあと10年 より

映画幻の3作目について

私はもう何も言えない・・・

”外の実在する動物がちらりと出てきたが、それは作画関係との意思の疎通がうまくいっていなかったせいで、本来、ポケモン世界にいる動物はポケモンと人間だけである。”

”ポケモン以外の動物がいないのもなぜなんだろう?

そこで、僕なりのポケモン世界を小説1・2巻に補足して加えた。その補足は終わっていない。3巻目が出ていないのは、『ポケモン』の放映が終わらないと書けない、種明かし的補足が入る予定だからだ。

映画版幻の第3弾には、かすかだがその問題をかすめる話のつもりだった。

つまり、空想の産物ポケモンと人間しかいない世界に、別の存在が登場するストーリーだ。

そのストーリーの始まりは、ティラノサウルスの化石が発見されるところから始まる。

ティラノサウルスは言うまでもなく、地球の中生代に実在した恐竜である。

ポケモンには化石ポケモンがいる。

じゃあ、実在した恐竜の化石はなんなのか?

要するに、遠回しだが、「動物はポケモンと人間だけのいる世界とは何?」をちょっとだけかすめるストーリーだった。”

引用元:第209回病院での映画『ポケモン』第3弾 より

映画3作目のプロット

答えについては後ほど考察をしたい。首藤氏は既に亡くなられているので答え合わせはできませんが・・・

プロットの後半は、ルギア爆誕の、ポケモンの行動を、今度は人間とポケモンに置き換えて焼き直しに感じた。

”ポケモンはこの星の滅亡を予感しているとしか思えません。

彼らの力では何もできないかもしれない

けれどこの星の自然に密接な関係のあるポケモンだからこそ、何かをしなければならないと本能的に感じて集まってくるのです。

危ないのはこの世界のすべてです、それを一番知っているのはポケモンたち。

彼らには何もできないかもしれない、でも彼らは何かをせずにはいられない。

引用元:映画2作目謎のポケモンルギア爆誕ウチキド博士の発言より

”ポケモンと人間しか動物のいない、いわば「ポケモン」ゲームが構築した架空の世界に、実在した中生代の恐竜ティラノサウルスの化石が発見される。

(中略)ポケモン世界の生物学会は大騒ぎになる。そして、重要なことに気がつく。

ダーウィンの進化論はある。動物と人間の進化の過程を説明している。しかし、実際のポケモン世界に動物は人間とポケモンしかいない。いわゆる本物の動物はいない。

古い記録を調べれば、この世界に本物の動物がいた。だが今はいない。記録には残っているが、人間の記憶にないのだ。

ポケモンが、この世に発生した時期が定かでない。そして、ポケモンには進化論は通用しない。
なのに新発見のポケモンはどんどん増えていく。

過去に多くの学者が、ポケモンについて研究しているが、ある時期になるとぴたりと研究を止め、田舎にひきこもり、それ以上の研究発表をしなくなる。オーキド博士もその例にもれない。

どうなっているのだ?

記録には残っている動物(写真すらあるのに)が、人間たちの記憶から消えている。

そのことに疑問すら持っていない。

何かこの世界の存在自体に、大きな秘密があるのではないか?

人間たちはティラノサウルスの化石の発見に、自分たちの生きている世界がなんなのかに疑問を抱き始める。

しかし、そんな余裕はない。

ティラノサウルスの化石の目の部分に青い光がともる。そして、動きだす。一直線に、どこかを目指し、進んでいく。

その進路にある、人間の世界もポケモンの野生世界もおかまいなしだ。

川も海も一直線に越えていく。

ともかく一直線だ。

邪魔になるものは、すべて、踏み倒していく。

ティラノサウルスを止めなければ、ポケモンと人間たちだけの世界の謎を解くこともできない。

その進路には、主人公サトシのマサラタウンもある。

色々なポケモンの生活圏もある。

オーキド博士は、研究所をめちゃめちゃに踏みつぶされても「いつかこんな時が来ると思っていた。なぜ、こうなるのか分からんけれど……」

としか言わない。

実は、オーキド博士にも分かってはいないのである。「いつかこんな時が来ると思っていた」以外には……。

ともかく、一直線に進むティラノサウルスの化石を止めなければ……。

ポケモンも人間も、本能的にティラノサウルスの化石を止めようとする。

ティラノサウルスの化石を止めなければ、自分たちのポケモンのいる世界の存在が危うくなる気がするからだ。

なぜ、危うくなるのかその理由は分からないが、本能的にそう感じるのだ。

ティラノサウルスの化石の進む進路には、様々な人間のドラマやポケモンのドラマがある。

しかし、そんなものはお構いなしで、ティラノサウルス化石は一直線に進む。

そのティラノサウルスの化石の前に立ちはだかって止めようとするポケモンと人間。

ティラノサウルスの進行を追いかけて止めようとするサトシら主人公たち。もちろんロケット団トリオも同じだ。

ティラノサウルスの進行方向には、ロケット団の秘密基地もある。ロケット団本隊も化石の進行阻止に必死になる。

いつもの敵も味方もありはしない。

ともかく、テイラノサウルスの化石を止めようと懸命になる。

かろうじて冷静なのは、「自己存在」テーマのミュウツーぐらいである。

そして、ティラノサウルスの化石が止まり、動かなくなったその場所は……。

その答えは、書かない。

動物とはなにか? 

人間とは何か? 

その違いと共通点を考えれば、それほど難しい答えではない。

それは、なにも『ポケモン』の映画でなくても、通用する。

……というのが、幻の『ポケモン』映画、第3弾のプロットである。”

”テーマは、「自分の生きている世界は何なのか?」である。”

”現実の世界で違う意識をもつはずの人間と動物を、架空の「ポケモン」世界における「現実のかつては生きていた化石」を通して描いてみようとしたのが、幻の『ポケモン』映画第3弾だったのである。”

引用元:第210回 幻の『ポケモン』映画3弾……消えた より

”幻の映画第3弾では、「いったいあれはなんだったんだろう?」「そして我々の世界はどんな世界なのだろう?」でエンドマークが出る。”

引用元:第211回幻の第3弾から『結晶塔の帝王』へ より

アニメ『ポケモン』のラストのストーリー

驚きの結末である。驚きである。

”ディグダはけして強いポケモンではない。

しかし、人間の力ではどうにもならないポケモンなのである。

そんなポケモンが存在する事を、31話の「ディグダがいっぱい」で描いて、80話近辺のラストで、人間とポケモンとの関わりというテーマを語る時の布石にしたかったのだ。”

引用元:第155回人間の言うなりにならないポケモン より

”小説の中では、ポケモンは、人間の理解不能な不思議な生き物という事になっている。”

引用元:第155回人間の言うなりにならないポケモン より

”『ポケモン』は、人間の理解を超えた生き物”

ここまでは布石である。

引用元:第157回ポケモン予期せぬ出来事―数ヶ月前 より

”ポケモンと人間は本当に共存できるのか?

当然、ポケモンと人間は同じではない。しかも、人間にゲットされたポケモンはゲームで、戦いの道具にされる。人間にゲットされたポケモンは奴隷である。グラディエイター(剣闘士)である。人間に寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎない。

共存は不可能……ピカチュウとサトシの間にも溝ができる。

おそらく、この番組の終盤には、ピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っている。

ローマ時代、ローマに反乱をおこし、ローマを窮地に陥れた剣闘士スパルタカスほどの実力を持ったポケモンになっている。

ポケモンは人間に反乱をおこす。

リーダーに祭り上げられるのはピカチュウだろう。

サトシとピカチュウは友人同士のつもりである。ピカチュウはポケモンとしての自分を選ぶか? 違う生き物である人間と、友情、感情という移ろいやすいものをたよりにいままでのように共存していくのか?

サトシとピカチュウは苦悩する。

「しかし人間とポケモンは共存できるよ」

と、いいながら、いけしゃあしゃあと、その戦いをやめさせるために活躍するのがロケット団とニャースのトリオである。

なぜなら、『ポケモン』の世界で出来の悪いポケモンを押しつけられ、さまざまなポケモンと出会い、自身が意識しなくても、ポケモンについていちばんよく知っているのは実はムサシとコジロウ……そして、一度は人間になりたかったニャースなのである。

彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっていた。

そして、「自己存在の問い」に対しては、自分がポケモンなのか人間なのか、クローンなのか、一つの答えを見つけたミュウツーがいる。

相手がポケモンであろうと、クローンであろうと、はたまた、出会うことのなかった何かであろうと、自己存在のある限り、われわれはどんなものとも共存できる。

年月がたち、老人になったサトシは、ふと、昔を思い出す。

それは美化された少年時代の思い出。空想……、想像の生き物ポケモンたちとの冒険。友情。共存。

それは、現実の人間の世界で、サトシが出会えなかったものだっかもしれない。しかし、少年時代のどこかに、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツーがいて……それだけではない、サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの目には見える。
サトシの耳にサトシの母親の声が聞こえる。

「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」

翌朝、母親に叩き起こされたサトシの姿は少年に戻っていて、元気に家を飛び出していく。

それは「ポケモン、ゲットの旅ではなく、ポケモンマスターになる旅でもなく、自分とは何かを」探し、他者との共存を目指す旅だ。”

引用元:第184回『ミュウツーの逆襲』のその先へ

動かなくなったその場所は、について考えた

ほとんど引用を読んでいただきありがとうございます。

これでも元のコラムの10%くらいの分量かと思います。

ぜひ、原本も読んでいただきたい!!!

ここから、映画3作目の”ティラノサウルスの化石が止まり、動かなくなったその場所は……。”について考えたいと思います。

私の考えた答えは、サトシの家、もっというとサトシが持っていたであろうゲーム機の前です。

首藤剛志氏が脚本を務めたアニメポケットモンスターの第一話「ポケモン!きみにきめた!」の冒頭を思い起こすと、

ゲームボーイを起動した音、そしてそのゲーム画面、そこからアニメの世界へ展開されていきます。

これがサトシの足取りと考えて、

”「ポケモン」ゲームが構築した架空の世界”
引用元:第210回 幻の『ポケモン』映画3弾……消えた より

”『ポケモン』の空想の冒険世界に旅立ったのは、少年期のほんの一瞬なのかもしれない。”

引用元:第143回『ポケモン』第1、2話放映

から、サトシは、ゲームを始めて、ゲームが構築した架空の世界に、サトシが空想をして、アニメポケモンの世界を創造した。

と考えました。

そこから、

”動物とはなにか?

人間とは何か?”

を考えました。

動物(=ポケモン)と人間の違い:現実世界の存在の有無

共通点:空想世界で存在していること

ここからティラノサウルスの骨は、二つを繋いで現実世界へと向かう場所、として現実世界でサトシがプレイしたポケモンのゲーム機にたどり着く、と考えました。

以上!考えに対する質問は受け付けない!

筆者について

筆者 のびた

3DPなどを使って創作活動をしています。

BASEで販売をしています。

ツイッターはこちら

コメント

タイトルとURLをコピーしました